雑草と日本人
――植物・農・自然から見た日本文化
稲垣栄洋 著
「しなやかで強い日本人」を育んだ背景を探る
「そんなことをしている暇があったら、草取りでもしていろ」
著者はサラリーマン時代に、そんなふうに怒られたことがあるそうです。
この台詞は皮肉だったのでしょうが、
実際、日本では、歴史的に「草取り」が非常に重んじられてきました。
雨が多く高温多湿な日本では、農作物がよく育つ一方、雑草の繁殖もいちじるしい。
日本人にとって、草取りをしない=怠け者、であり
隣近所の目を気にしながら、皆が競い合うように草取りや草刈りに勤しんだのです。
また、日本の水の豊かさは、豪雨、洪水、土砂崩れなどの自然災害も繰り返しもたらしてきました。
自然が豊かな日本では、生き物も豊富で、中でも、害虫は種類も数も多く、農業にとっては大敵でした。
こうした豊かすぎる自然と、日本人はどう付き合ってきたのでしょうか? 本書は、その歴史・歩みから日本人固有の心性を浮き彫りにする、異色・出色の日本文化論です。
ここでは、本書の「プロローグ」を抜粋・紹介いたします。
◎プロローグ
私は「雑草学」を専門にしている。
そう言うと、「雑草学なんてあるんですか」「ずいぶんと変わった研究をされているんですね」などと言われることが多い。
農業生産を行う上で深刻な問題となるのが、害虫、植物病害、雑草の三つである。日本には日本雑草学会という研究者の集まりがあって、一〇〇〇人以上の研究者が所属しているし、世界の国々にも雑草学会があって、世界中の研究者が日夜、雑草の研究に取り組んでいるのである。
ところが、害虫や植物病害の研究をしていると「役に立つ研究ですね」と言われるのに、どういうわけか雑草だけは「変わった研究ですね」と言われてしまうのである。
どうしてだろうか。
日本には「雑草魂」という言葉がある。また、「雑草は、踏まれてもくじけない」という生き方の見本にされることも多い。そのためだろうか。おそらく多くの人たちは「雑草学」という言葉を聞いたときに道ばたで踏まれながら頑張っている雑草を思い描いてしまう。そして、そんな雑草を研究しているなんて、ずいぶんと変わった人だと思ってしまうのである。
しかし、「雑草」という言葉にこのような反応をするのは、私が知る限りでは日本人だけである。
雑草は農業を行う上で深刻な課題である。そのため、海外で「雑草学の研究をしている」と言えば、害虫や植物病理と同じように農業にとって役に立つ研究だと受け入れられる。
「日本人は雑草が好きな国民である」
誤解を恐れずに言えば、私はそう思う。
海外の国々では、雑草は邪魔者である。
もちろん、日本でも雑草は邪魔者である。しかし、「雑草魂」のように、日本語では雑草を良い意味に使うのである。
小学校の卒業の寄せ書きには、必ずと言っていいほど「雑草のように」と書く生徒がいるという。あるいは、無名の努力家や苦労人たちは「雑草のごとくたくましく」と称えられる。日本では、「雑草のようなたくましさ」は良い意味で使われる。
「あなたは雑草のような人ですね」と言われると、どこかほめられたような気になる。もちろん、「雑草」と言われて嫌な思いをする人もいるだろうが、「あなたは温室育ちの人ですね」と言われるよりも、雑草と言われたい人のほうが多いだろう。温室育ちの作物は、とても良い環境で大切に育てられたエリートの植物である。しかし、日本人はエリートであるよりも雑草であることを好むのである。
「雑草」がほめ言葉に使われたり、「雑草」と呼ばれて喜んだりするのは、私が知る限り日本人くらいのものだろう。
たとえば、英語の「ウィード(雑草)」という言葉には良い意味はない。英語には「雑草は死なない(Weeds never die.)」や「悪い雑草はすぐ伸びる(Ill weeds grow apace.)」ということわざがあるが、これは「憎まれっ子世にはばかる」(人に憎まれるような人が、かえって世間では幅をきかせる)という意味である。
欧米人に「あなたは雑草のような人だ」と面と向かって言ったとしたら、間違いなく怒られることだろう。
そんな話を聞くと、欧米の雑草は生育が旺盛で、日本の雑草よりもやっかいな存在なのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、実際は逆である。
日本では、草取りをサボれば、あっという間に雑草だらけになってしまう。
日本の雑草は世界に比べてもずっとやっかいな存在なのだ。
それなのに、どうして日本人は雑草に愛着を持っているのか。
これが本書の大きなテーマである。
「雑草」という言葉に対する日本と西洋(欧米)の考え方は、ずいぶんと異なる。
日本は、西洋と比較されることが多い。西洋の文化や考え方は日本とはずいぶん異なる。正反対と思えることも多い。ゆえに西洋と比べることによって日本の特徴がより際立つのであろう。
もちろん、ヨーロッパと一口にいっても、地中海に面した南ヨーロッパと冷涼な北ヨーロッパでは気候や風土はずいぶん異なるし、西洋の中にもさまざまな国がある。また、「欧米」とひとくくりにするが、ヨーロッパとアメリカでは気質はずいぶん違う。
アジアといっても、東南アジアや南アジアまで広大であるし、東アジアの日本と中国、韓国を比較しても、さまざまである。
しかし、「日本」という国の特徴を明らかにする上では、ユーラシア大陸の反対側で発達を遂げて、キリスト教という基層の上に成立してきたヨーロッパと比較することは、非常にわかりやすい。また、グローバル化が叫ばれているが、グローバル化とは、欧米の文化やルールを取り入れる欧米化であることが多い。そのため、世界と日本を比べる場合には、やはり西洋(欧米)との比較という観点がわかりやすい。
そのため、本書でも西洋(欧米)という大きな括りと、日本との比較をしていきたいと思う。
どうして日本人は雑草を愛するのだろうか。そして、雑草を愛する日本人とは、いったいどのような国民なのだろうか。
雑草や農業、自然といった視点から日本人を見てみることにしよう。
目次
プロローグ
第1章 植物にも仏性を感じてきた日本人
西洋と日本でこれほど違う「雑草観」
日本の雑草は手ごわい
「ヨーロッパには雑草はない」
「芝生に入るな」の背景
雑草を育む日本の気候と水資源
草取りという宿命
「小僧泣かせ」「小僧殺し」という名の雑草
上農は草を見ずして草を取る
西洋人が見た江戸・明治時代の日本の畑
イネ科植物の進化と文明
狩猟民族だった日本人
農業はどのような場所で発達するか
農業発祥の地で最初に発達したのは「牧畜」
イネ科植物の草原での進化──葉を硬くし、栄養価を下げる
イネ科植物の草原での進化──「成長点」を低くする
イネ科の種子が人類を救った
「種子が熟しても落ちない」という大発見
種子という「富」の誕生
農業という麻薬
古代の東日本に稲作が広まらなかった理由
農業の技術が軍事力を生む
古代日本で稲作が広まっていった背景
日本の自然には神が宿る 恵みと脅威の源泉
自然信仰が今なお残る日本
自然豊かな地における神と、乾燥地における神
西洋の神と日本の神
日本の神と祟り
日本人はなぜ誰もいない場所に礼をするのか
日本の近代化とアミニズム
自然の豊かさは脅威でもある
硬軟あわせ持つ日本の神
日本人固有の「自然」意識
江戸時代まで日本には「自然」がなかった
「自然」を認識できる条件
「豊かな自然」に甘える日本人
日本人はなぜ環境意識が低いのか
管理や保護が難しい日本の自然
台所にハエのいる欧州、いない日本
日本人にとって自然は良きライバル
日本の無数の生き物たちと田んぼ
虫を愛でる国、日本
虫の音を認識し、楽しむ日本人
人も虫も神さえも、自然の一員
日本と西洋における「生物多様性」の違い
田んぼに集まる弱い生き物たち
田んぼという豊かな「二次的自然」
田んぼの生き物はどこから現れたのか
仏教の殺生思想と日本人の生命観
「いただきます」「ごちそうさま」という日本文化
肉食と捕鯨に見る、日本と西洋の自然観の違い
すべてのものに仏性を見る日本人
日本人の植物供養と精進料理
仏教者の罪滅ぼしとしての「肉食禁止」
仏教が説く動物と草木の違い
インド・中国の植物観
日本で受け入れられた「草木国土悉皆成仏」という思想
庶民までが肉食禁止を受け入れた国、日本
日本の針供養と人形供養
第2章 農と自然が育んだ日本人気質
世界の農地荒廃と日本の田んぼのすごさ
整然とした西洋の風景、雑多な日本の風景
日本と西洋の土地の生産力の違い
江戸の大人口を支えた「土地力」
日本の農業の面積あたりの食糧生産力は世界一
日本の食料自給率が低いと言われる理由
衣類も住まいもエネルギーも植物から作る日本
じつは輸入に依存している西洋の農業国
世界で急速に進む農地の土壌浸食
農業が招く塩類集積と水不足
砂漠化しない日本の農地
毎年イネを作れる奇跡
世界の食糧不足に貢献できていない日本の農業
水田は日本人の知恵の結晶
雑草が日本の水田稲作を発展させた
日本と西洋の「植物分類学」の違い
日本特有の「お婆さんの植物学」
西洋の植物学と日本の本草学
日本人は「用途」で植物を区別する
日本の植物分類法は使いやすい
西洋の植物分類学の限界
自然界は本来、境界のない世界
日本で緑を青と呼ぶのはなぜか
西洋科学は物事を細分化し、比較する
単純な比較によって現実を見誤る
部分に分けない東洋の考え方
利用しないものは「その他大勢」
「雑」という分類
雑草を悪とみる西洋人、雑草を活かす日本人
「雑草」の学術的定義のあいまいさ
悪魔が雑草の種子を蒔く
西洋から輸入された「雑草=悪」という概念
善と悪を明確に区別しない日本人
日本では自然も獣も鬼も、脅威であり恵み
田の草取りを変えた「田打車」という大発明
雑草は皆が欲しがる貴重な肥料だった
日本の豊かな自然と「引き算の文化」
西洋の庭園の直線美
直線的な西洋、循環的な東洋
自然に近い姿を美とする日本庭園
自然を切り取り、自然を活かす
日本で「引き算の文化」が生まれた背景
「何もない」のが美しい
日本の雑草と減点主義
取りと日本人の人生観
日本人の勤勉性と草取り
怠けを許さない日本の雑草
草取りと生産性
休むことが下手な日本人
農地を休ませる西洋、農地を働かせ続ける日本
日本人は趣味や遊びにも「道」を求める
日本の農業が育んだ「道」の哲学
「遊び」が大好きな日本の神々
働くことが遊ぶことだった日本人
稲作・自然災害と、日本人の協調性
個人より集団を重んじる日本人
「苦しみを分かち合う」という日本文化
明治期に日本に輸入された「個人」という概念
チームプレーにも優れる西洋人
日本人の協調性と稲作
幾たびもの自然災害が日本人の気質を作った
日本の豊かな植物と日本人の「新しもの」好き
石造りの西洋建築、植物を多用する日本建築
「新しいもの」に価値を見出す日本人
木の文化を育んだ日本の自然
「初物」ものは「おいしい」
豊かで再利用もできる日本の植物資源
新しいものへの「変化」を尊ぶ日本人
せっかちで辛抱強い日本人を生んだ背景
電車の遅れを許せない日本人
変化が激しい日本の自然
相乗効果で日本人も雑草もせっかちに
はかなさに価値を見出す
外圧を受け入れ発展してきた日本
日本人の順応性と雑草
第3章 雑草のように、しなやかに
雑草が持つ「弱さという強さ」
日本人は雑草と似ている
雑草の「強さ」とは何か
日本人の「判官びいき」
「弱者の強さ」をこそ愛する
戦国武将はなぜ雑草を家紋にしたのか
紋章に見る、西洋と日本での「強さ」の違い
逆境こそ雑草の生きる道
弱者が強者に勝つ条件
逆境こそ突破口
逆境を味方に変える雑草たち
雑草の「戦わない戦略」
日本タンポポの賢明さ
強者とは戦わない日本の生き物
雑草は「変化」を生きる糧とする
雑草にとって「変化」は最大の好機
植物のCSR戦略と雑草の生きる道
植物最大の苦境「攪乱」を活かす
雑草の特徴と重なる日本人
しなやかな強さで生きていく
水の力を逃す信玄堤
ヨシ(葦)の強さこそ日本人の強さ
日本人の卓越した受容・活用能力
外圧に逆らわないという強さ
日本人が培ってきた「あきらめる心」と「あきらめない心」
雑草は「変えられるものを変える」
変化していくために「不変の核」を持つ
エピローグ
著者紹介
稲垣栄洋(いながき・ひでひろ)
1968年静岡県生まれ。静岡大学農学部教授。農学博士。専門は雑草生態学。岡山大学大学院農学研究科修了後、農林水産省に入省、静岡県農林技術研究所上席研究員などを経て、現職。著書に、『生き物の死にざま』『生き物の死にざま はかない命の物語』『スイカのタネはなぜ散らばっているのか』『身近な雑草のゆかいな生き方』『身近な野菜のなるほど観察記』『蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』(いずれも草思社)、『身近な野の草 日本のこころ』『はずれ者が進化をつくる』(筑摩書房)、『弱者の戦略』(新潮社)、『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』(東洋経済新報社)、『世界史を大きく動かした植物』(PHP研究所)など。
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